ざれごととたわごと

頭から口ではなく、頭から指先を通った文です。

春って、みんなすんなり過ごせているの?

 

冬から春へ季節が変わる頃、今年もまた世界に色がつき始めたと気づく。

毎年季節はちゃんと巡って、毎年ちゃんと同じことを思ってる。

 

秋の紅葉を最後に、山はひらひらぱらぱらと色を落として、空はどんより白っぽい日が増えて。でもイルミネーションとかお正月とか、冬って案外賑やかだから自然界の色が少ないことに気がつかない。

そのまま慌ただしく過ごしていたら、ある日、空が青くて太陽が穏やかに光ってて、緑が緑らしく見えて、花の色が鮮やかに増えていて。

「うわぁ、またやられた」と思う。

 

自然界が着々と準備して今まさに咲き誇ろうとしてる頃、人間界では夢や希望に満ちた新○○が溢れてくる。

イルミネーションだお正月だ2月は日数が少ないだと言い訳してるあいだに、まわりがとっくに変化している。

 

春はいつも切ない。

 

まただ。また置いていかれた、と何も変わらない自分を責めたり抱きしめたり気持ちだけが落ち着かない。

そんなとき、村上春樹カンガルー日和」がふと頭に浮かぶ。

出てくる人が全然焦ってなくて、自分の軸でモノを見ている世界に、憧れるし救われる。

いいよいいよ、これが私の春で。春だから絶対に花を咲かせなくちゃいけない理由なんてない。そうくさくさしているうちにすぐに夏が来るんだから。

 

だけどやっぱりなぜかちょっと切ない。

 

 

 

再会

縁がある人とはまた会える、とよく言うけれど、今までそんな縁を感じた再会はなかったと思う。

お世話になった人はたくさんいるし、また会えたらいいなと思ったことは何度もある。

だけど、今はここで別れるけれどいつか必ずあなたに会いたい、なんて強く強く思う人には出会っていないのかもしれない。

だからきっとどこかですれ違っていたとしても、私はその人に気がつかなかったんだろう。

 

縁、きっと待ってるだけじゃだめな気がする。

 

また会いたいと強く思う出会いなら、きっと心が変化するほどの、今までの自分では選ばなかった道や考えに至るきっかけになるほどの衝撃で、そう、コペルニクス的出会い。

そんな出会いならきっと、私は奔走する。あなたに会いに行く努力か、遠くのあなたにも私の名前が届くようにとの努力か、とにかく今までにない行動をするだろう。

それは相手に伝わって、なんとなくことあるごとに思い出す、印象に残る人に私もなるんだろう。

そしてお互いに、心のどこかに相手を残したまま、ある日すれ違う。

 

『あ、あの人…』

 

夢で会えたらって思ってたけど、夢で会えたところでじゃない?

会える人にはちゃんと気持ち伝えたい。

会える時間があるって、すごく大事なこと。

別れが惜しい人と出会えたことは、別れが寂しいと思える人に出会えたことは、出会えて良かった思い出がたくさんあるってことで。

それってとっても素晴らしいことだよね。

 

 

森絵都「出会いなおし」という小説、

春の穏やかな陽と、花粉もちりも喜びも悲しみも吹き荒れる強風の日に、いつかの誰かを思って読むのにおすすめ。

 

私は大人になりたいけど、親には親でいてほしい

子どもから大人になることは、すごく自然で当たり前のことなんだと思っていた。背が伸びるみたいに、学校を卒業して入学するみたいに、ごく自然に、早く大人になりたいと何度も思った。

それなのにいつの間にか大人と言われる年齢になってもまだ、「大人になりたい」と思うことがある。

もう全く背は伸びないし、むしろこれからは縮んでいくんだろうし、卒業する学校も入学する学校もない。

いやもちろん今からだって入学する学校はいくらでもあるんだけど、私が思っていたのはそういうことじゃない。自分の考えと責任でそういうことができる人はもう大人だと思うし。

 

それでも親の元では私はすっかり大人の顔をしている。

親はずっと元気で頼れる不動の存在で、子供の私が主役の会話をいつもしていたと思っていたのに、ある日気づけば、親の健康状態や弱音や愚痴を静かに聞いている私がいる。そう、大人の顔をして、たまにアドバイスなんかしたりして。

いつのまに。

相手の話にうんうんと相槌をうちながら、そんな親の老いや変化を受け入れられないで、内心イライラしたり悲しくなったり落ち着かない気持ちでいる。

私が大人になってもお母さんはずっとお母さんだと思ってた。

お母さんと対等な話ができることは憧れていた大人になったということのはずのに、なぜか悲しい。もう子供のときのように自分のすることに口出ししないでほしい、私は大人よ。でも親には親のまま、あの不動の存在でいてほしかったんだね。

 

人は変わるもの。それは親も当然のこと。

気づいた私は今も思う。

早く大人になりたい。

大人になって、変わっていく親も受け入れていきたい。

会話

「いちばんすきな花」というドラマを3日かけて一気見した。

3日かかったことは一気見というのだろうか。

でもとにかく、1話から最終話までを毎週待ち望みながら見てたわけじゃないことは伝わるかな。

 

録画を溜めていたこともあるし、そんなに話題になってなかったこともあるだろうけど(silentやびばんみたいに余韻や考察が飛び交ってなかったから)、最近見るまで悩めるオトナ男女のシェアハウス的な話だと思ってた。

 

スタバとかシェアハウスって言うとき脳内でスタバ(笑)、シェアハウス(笑)ってなっちゃうくらいに拗らせてるんだよね、私。でもこういうやつほどテラハとかちゃんと欠かさず真面目に見てるから。あ、テラハ(笑)ね。

 

キラキラした青春を送りたかったっていう自分の密かな憧れと、できなかった劣等感を(笑)に変換してなんでもない顔して生きてるの、ほんとよくないと思うんだけど、まっすぐなまま生きれなかった結果、(笑)をつけちゃうし、募る思いをこんなふうに画面に吐き出すしかない人生なんだろうな。堂々巡り。

 

「いちばんすきな花」はそんな私の予想を裏切ってくれて、でも心に閉まってたトラウマを引きずりだしてくれるドラマだった。

出てる人たちは、(笑)で流してる私よりよっぽど良い人たちだったけど、思いは似てるんだと思う。

 

『会話がしたい』って思う。

脳内での思考は常に一方通行で、リアル社会ではいつも目の前の人優先になる。

言葉のキャッチボール自体はできるけどそのボールは相手のものだから、私はできる限り落とさないように傷つけないように汚さないように、とにかくボールを返すことに一生懸命で気がつけば「もう帰る時間だからばいばーい」って相手もボールもグローブもなくなってただ1人グランドに残された気分。

人と話したあとってそんな気分になる。

そんなとき「あぁ、私も遊びたかったな」って。もちろん楽しかったって思うんだけど、本当は私も新しいボール持ってたんだけどなって、カバンに入れてた新品のボール握りしめて。いつまでもピカピカで絶対になくならない。でも親が心配するから壁打ちしてちょっと汚してから帰ろうかな、みたいな。

人と話したあとって、なんとなくまっすぐ家に帰れなくて用もないのにコンビニ寄ったり本屋に寄ったりしちゃう。

 

でもね、相手のせいばかりでもないんだよ。わかってる。

私自身、「この人に話したってしょうがない」みたいなとこあるんだと思う。上辺だけの関係しか築けないのは、私自身の問題。

今目の前にいる人と、どこまで深い関係を築こうとしているのか推測って、いつもだいぶ手前で線引きしてるのは私。たまたま席が近かったから、移動教室のとき1人は嫌だから、たまたま同じクラスになったから、たまたま同じ職場だったから。

そうやって大人になったら、もう出会う人は仕事関係の人しかいなくて、そうなると、ほら、「会社の人と深く関わるとか(笑)ねぇ?」って脳内がまた、アレ、付けるんだよ。

 

友だちって、みんなどこでつくれたの?

 

会話がしたいな。

頭の中のことすんなり渡せて相手のもすんなり受け取って、それ以上でもそれ以下でもないやつ。

 

「空が青いね」

「青いね」

「寒いね」

「寒いよね」

「おなか減ったね」

「減った、何か食べよっか」

「そうだね、何食べよう?」

 

なんの思惑もなく、駆け引きもなく、あるがままの相手と自分でいられる関係にずっと憧れてる。

お腹痛いとき、痛いよって言える相手。

死にたいとき、死にたいんだって言える相手。

どっちも「空が青いね」くらい自然で、ただそこにある事実を話すから、同じように「痛いんだね」って返してほしい。

言われた方が、(なんとかしなくちゃ!!薬?病院?ストレス?病気?死なないで!死んじゃだめ!なんでそんなこと言うの!!!!!)って慌てない関係。

ただお耳を貸し合える関係。

 

そんな人、いなくても平気って思えるくらいには大人になったのに、あのドラマを見てまた少し羨ましくなっちゃった。

街中で、歩きながら、ちょっと笑いながら電話してる人、羨ましいよね。

あーあ。

 

 

 

私も松下洸平のお耳貸して欲しいな。

(結局そこかーい)